- 人間は、集団になると急にマンモスを追いかけ始める
人間には、標準規格なんてない。
それなのに人間は、集団になると、まるで標準規格が存在するかのように振る舞い始める。
- 働くのが普通。
- 空気を読めるのが普通。
- 右利きが普通。
もし将来、ベーシックインカムが当たり前の社会になれば、「ニート」という言葉そのものが、今とは違う意味になるかもしれない。あるいは、そんな分類自体が必要なくなるかもしれない。
それなのに今は、働いていない人を親の仇のように馬鹿にしたり、社会の害であるかのように扱ったりする。
歴史を振り返っても、「普通」から外れた人間を生贄にする構造は、形を変えながら何度も現れてきた。民族、女性、年齢、障害や発達特性——その時代の社会が「問題」と見なしたものに、排除の矛先が向けられる。
規格という妄想。
そんなものは自然界に刻まれた絶対法則ではない。
それなのに、大勢が同じ規格を共有すると、それはまるで自然そのものだったかのように見えてくる。
そして集団になると、人間は急に牙を剥く。
マンモスを追いかけていた頃に戻ったみたいに。
面白いのは、誰もが自分なりの基準で他者を評価していることだ。
-
- 学校では成績をつける。
- 受験では順位をつける。
- 就職では選抜する。
- 会社では評価して昇進させる。
- 研究者には賞を与える。
- 学校では成績をつける。
誰もが「優れている」「劣っている」を何らかの基準で判断している。
それなのに、いざその話になると、
「人間に優劣なんてありません」
と澄ました顔をする。
ムッツリスケベである。
私は別に、評価そのものをなくせと言いたいわけではない。
私だって、人の思考を見て「この人は浅いな」「この人は鋭いな」と勝手に評価している。
ただし、それは私の基準だ。
私がそう評価したからといって、それを世界の絶対法則にする必要はない。
問題なのは、自分たちの評価基準を、自分たちの基準だと自覚しないまま、自然法則のように扱い始めることなのだ。
かつて私は、「自分の脳を出荷状態に戻したい」と考えていた。
過去の経験や思考の癖を消して、もっと「普通」に動ける自分になりたいと思っていた。
スマホゲームの規格で動く世界で、うまく動けない自分を「バグ」だと思っていたからだ。
でも、違った。
私は壊れているのではない。
ただのセガサターンなのだ。
左利きの子供が、右手を使うように強制されたからといって、左利きという仕様そのものが「治った」わけではない。
外側の行動を、右利き用の世界に合わせただけだ。
同じように、ある人の認知や感覚や行動の傾向が、多数派の規格に合わないからといって、それだけで「不具合」とは限らない。
では、誰がそれを不具合と判定したのか。
その判定に使われている評価関数は、本当に自然法則なのか。
私は、自分の配線を直す方法を探す前に、まずそこを疑ってみることにした。
私を「不具合」と呼んでいるのは、私自身なのか。
それとも、私の外側にある、誰かが作った規格なのか。
第一部 「自分を変えたい」の、その前に
「もっと普通になりたい」
「この反応をなくしたい」
「昔のことを引きずらない自分になりたい」
「脳を出荷状態に戻したい」
そんなふうに思ったことはないだろうか。
私も、以前はそう考えていた。
自分の中には、どうにも扱いづらい配線がある。
人より気になりすぎることがある。
人より納得できないことがある。
みんなが簡単に流しているものを、流せないことがある。
だから、その「余計なもの」を取り除けば、もっと楽に生きられるのではないか。
そう考えるのは、別におかしなことではない。
むしろ、世の中には「自分を変える方法」が山ほどある。
- 考え方を変えよう。
- 習慣を変えよう。
- 反応を変えよう。
- もっと柔軟になろう。
- もっと適応しよう。
そうやって、現在の自分を基準から測り、基準から外れている部分を見つけ、そこを修正していく。
けれど、あるとき私は、少し妙なことに気づいた。
そもそも、その「修正すべき」という判定は、誰がしているのだろう。
私が自分でそう思っている。
たしかにそうだ。
でも、その「自分でそう思う」という感覚だって、何もないところから生まれたわけではない。
学校では、成績がつく。
受験では、順位がつく。
大人になれば、採用されるかどうかが決まり、仕事では評価され、昇進する人としない人が分かれる。
社会に出れば、収入や肩書きや生産性やコミュニケーション能力など、さまざまな物差しが登場する。
つまり私たちは、子どものころからずっと、他人や社会によって作られた物差しの中で、自分を測ることを覚えていく。
その結果、
「自分は足りない」
「自分は遅れている」
「自分は普通ではない」
という判定まで、自分自身で下すようになる。
ここまで来ると、外側から命令されていることに気づきにくい。
「変わりなさい」と誰かに言われているのではない。
自分で自分に「変わらなきゃ」と命令しているからだ。
そして、その命令があまりにも自然になっているので、私たちはそれを「自分の意思」だと思ってしまう。
でも、本当にそうだろうか。
たとえば、左利きだった子どもに「右手を使いなさい」と何度も言えば、その子は右手を使うようになるかもしれない。
けれど、それは左利きという仕様そのものが消えたということだろうか。
私は幼いころ、左利きを怒られて直された。
右手を使うことはできるようになった。
でも、だからといって「左利きだった」という仕様が、きれいさっぱり消滅したわけではない。
外側の出力を合わせただけなのだ。
これは、意外と重要なことだと思う。
適応したことと、仕様が変わったことは同じではない。
そして、ここから話は少しおかしな方向へ進む。
もしそうなら、
「自分の配線を変えなければならない」
という前提そのものを、一度疑ってみてもいいのではないか。
その配線は本当に「不具合」なのか。
それとも、ただ今いる場所の規格に合っていないだけなのか。
そして何より、
「不具合」と判定しているのは、一体誰なのか。
私はそこから考え直すことにした。
第二部 その「標準」は、どこから来たのか
「普通」という言葉は便利だ。
便利すぎる、と言ってもいい。
右利きが普通。
学校へ行くのが普通。
卒業したら働くのが普通。
働いたら収入を得て、自立するのが普通。
人と会話するときは、相手の気持ちを察するのが普通。
では、その「普通」は、一体どこからやって来たのだろう。
自然界に「普通の人間」という設計図が置いてあるわけではない。
右利きが自然法則というわけでもない。
朝起きて会社へ行くことが遺伝子に書かれているわけでもない。
週五日働くことも、履歴書を書くことも、面接を受けることも、偏差値で人間を並べることも、生物学的な必須条件ではない。
それなのに、集団の中では、それらがいつの間にか「当然のこと」になる。
そして、その当然から外れた人間が現れると、
「なぜ普通にできないの?」
という疑問が生まれる。
ここが不思議なのだ。
「普通にできない」という言葉には、すでに答えが含まれている。
普通にできない。
つまり、普通という規格が先に存在していて、その規格に合わない側に問題がある、ということになっている。
でも、本当は逆かもしれない。
規格があるから、規格外が生まれる。
右利き用に作られた道具が多ければ、左利きは「使いにくい人」になる。
学校という制度に合わなければ、「学校に適応できない人」になる。
現在の労働市場に合わなければ、「働けない人」になる。
コミュニケーションの規格に合わなければ、「コミュ障」になる。
ここで、一つ抜け落ちているものがある。
その規格自体が、誰かによって作られたものだという事実だ。
もちろん、規格には便利なものもある。
みんなが同じ交通ルールを知っていれば、道路は走りやすい。
ある程度の共通ルールがあるからこそ、大人数で暮らすこともできる。
だから私は、「規格なんて全部ぶっ壊せ」と言いたいわけではない。
問題は、規格が便利であることと、規格が正しいことを混同することだ。
さらに厄介なのは、規格に従うことが長く続くと、その規格が「自然」に見えてくることだ。
昨日まで誰かが決めたルールだったものが、今日は「常識」になる。
そして「常識」になった瞬間、それに合わない人間のほうが説明を求められる。
なぜ働かないのか。
なぜ結婚しないのか。
なぜ空気が読めないのか。
なぜみんなと同じようにできないのか。
なぜ普通になれないのか。
こうして、規格は人間の内側にまで入り込む。
外から誰かに怒られなくても、自分で自分を採点するようになる。
そして面白いことに、私たちは「人間に優劣なんてない」と言いながら、実際には毎日のように人間を評価している。
学校では成績をつける。
受験では順位をつける。
企業は採用する人としない人を選ぶ。
仕事では評価があり、昇進がある。
スポーツには順位があり、芸術には賞がある。
研究者には論文や賞があり、世界的な評価としてノーベル賞のようなものまで存在する。
評価すること自体が悪いわけではない。
私だって、人間を見て「この人は思考が浅いな」「この人は鋭いな」と勝手に思う。
それは私の基準だ。
世界の絶対法則ではない。
だから私は、その評価を相手に押しつけなければいいと思っている。
ところが、社会全体になると少し話が変わる。
自分たちで評価基準を作り、自分たちで人間を選別し、自分たちで「優れている」「劣っている」を判断しているのに、その評価基準そのものについては、まるで存在しないかのような顔をする。
「人間に優劣なんてありません」
そう言いながら、裏では偏差値、収入、肩書き、生産性、フォロワー数、学歴、年齢など、無数の物差しで人間を測っている。
私はこれを見ると、少し笑ってしまう。
ムッツリスケベではないか。
評価したいなら、評価すればいい。
「私はこの基準では、あなたよりあなたのほうを高く評価します」と言えばいい。
それ自体は、ただの価値判断だ。
問題なのは、自分たちが勝手に作った物差しを隠して、それを「自然な優劣」のように扱うことだ。
そして、その物差しから大きく外れた人間が現れると、
「この人には何か問題がある」
という話になっていく。
そこで初めて、私は「配線」の話に戻ってくる。
もし私の配線が、今いる社会の規格に合わない。
そのとき、
「私の配線を変えるべきだ」
と考える前に、
「その規格は、本当に私が採用しなければならないものなのか?」
と考えてみてもいい。
規格に合わないことと、壊れていることは同じではない。
そして、規格から外れた人間を見つけたとき、私たちはときどき、その人を直そうとする。
けれど、それは本当に「修理」なのだろうか。
もしかすると私たちは、ただ――
違う機種を見つけただけなのかもしれない。
第三部 規格外を見つけた群れは、敵を作る
規格というものは、それだけならただの便利なルールだ。
右側通行にしましょう。
この時間に学校へ行きましょう。
この方法で仕事をしましょう。
それ自体は、たいして怖くない。
怖くなるのは、
規格から外れた人間を見つけたときだ。
「この人は違う」
そこまでは、ただの観察である。
ところが、集団が興奮すると、
「この人はおかしい」
になり、
やがて、
「この人は危険だ」
になり、
最後には、
「この人を排除しなければならない」
へ進んでしまう。
なぜだろう。
私はここに、昔の人間の影が見える。
マンモスを追いかけていた頃の人間だ。
もちろん、昔の人間が本当に今と同じ心理状態だったのか、なんて私は知らない。
ただ、群れで獲物を追い、危険を察知し、仲間と敵を区別して生きてきた動物として考えると、少しわかりやすい。
目の前に巨大な獲物がいる。
みんなで追う。
みんなで興奮する。
一人が叫ぶ。
「こっちだ!」
別の人間が叫ぶ。
「逃がすな!」
集団の意識が、一つの対象へ向かって収束していく。
この能力は、生き残るためには非常に便利だったはずだ。
問題は、マンモスがいなくなった後である。
人間の脳は、マンモスを追いかける必要がなくなったからといって、集団で対象を追い詰める能力まで捨てたわけではない。
だから、ときどき別のものを見つける。
「あいつは違う」
「あの人たちはおかしい」
「あの集団は危険だ」
そして、規格外の人間が「獲物」の代わりになる。
歴史には、その恐ろしい実例がいくつもある。
その一つが魔女狩りだ。
魔女狩りは、単純に「自由な女性が自由に生きたから殺された」という一枚絵ではない。
地域や時代によって事情は異なり、告発された人々も女性だけではなかった。
それでも、近世ヨーロッパの魔女裁判で女性が多数を占めたことは確かであり、そこには当時の女性観や宗教観、社会規範、共同体の不安など、さまざまなものが絡み合っていた。
女性には、
- こう振る舞うべきだ。
- こう生きるべきだ。
- こういう性質であるべきだ。
という規範があった。
その規範から外れた女性が、共同体の不安や疑念を背負わされることがある。
少し変わった人。
扱いにくい人。
共同体の中で浮いている人。
あるいは、病気や不作など、原因のわからない出来事と結びつけられた人。
そこに「魔女」という名前が与えられる。
すると、ただの「変わった人」が、
「共同体に害を与える存在」
へと変わってしまう。
ここが重要だと思う。
人間は、規格から外れた人を見つけるだけでは終わらない。
ときには、その人に「危険」という意味を付け足す。
そうすると、排除が正当化できるからだ。
「あの人が嫌い」
だけでは、人を追い出す理由として弱い。
でも、
「あの人は危険だ」
となれば話が変わる。
「みんなのために排除しなければならない」
という物語が成立する。
こうして、個人への違和感が、集団の正義へ変換される。
これは魔女狩りだけの話ではない。
時代が変われば、生贄の対象も変わる。
民族が標的になることがある。
女性が標的になることがある。
特定の年齢層が笑いものになることがある。
働かない人間が「社会の害」と呼ばれることもある。
学校や仕事の規格にうまく適応できない人が、「本人に問題がある」と説明されることもある。
そして、そのとき使われる言葉は、時代によって変わる。
魔女。
怠け者。
異常者。
社会不適合者。
役立たず。
空気が読めない人。
発達の問題。
「普通じゃない人」。
名前が変わっても、構造が似ていることがある。
規格を作る。
規格から外れた人を見つける。
その人に問題の意味を与える。
そして、問題を取り除くという名目で、その人を群れの外へ追い出す。
もちろん、すべての社会規範が悪いわけではない。
すべての評価が迫害につながるわけでもない。
けれど、私はここで一度立ち止まりたい。
「この人は規格に合わない」
という判断と、
「だから、この人は悪い」
という判断の間には、本来かなり大きな距離がある。
ところが集団が興奮すると、その距離が一気に縮む。
そして気がつけば、
「違う」ことが「悪い」ことになっている。
たぶん、人間はマンモスを追いかけているだけではない。
マンモスがいなくなった後も、
「みんなで追いかける対象」
を探している。
そして、いったん標的を見つけると、群れはものすごい勢いで走り出す。
だから私は、「規格」という言葉を少し怖いと思っている。
規格そのものが怖いのではない。
規格を守ることが目的になり、規格から外れた人間を敵だと思い始めた瞬間が怖い。
そのとき、ただの物差しだったものが、牙を持つ。
そして、その牙はときどき、
「あなたは間違っている」
という、とても親切そうな顔をして現れる。
第四部 魔女という「規格外の女」

その中でも、魔女狩りはかなり象徴的だと思う。
なぜなら、ここでは「規格外の人間」が、単なる変わり者では終わらなかったからだ。
魔女裁判で告発された人々の大多数は女性だった。
地域や時代による差はあるが、ヨーロッパ全体で見ると、魔女として告発・処刑された人々のおよそ8割前後が女性だったとされている。もちろん男性も魔女として告発された。だから「魔女=女性」と単純化することはできない。
それでも、この数字を見て、
「女性が狙われていなかった」
とは、とても言えない。
むしろ問うべきなのは、
なぜ、これほどまでに女性だったのか。
当時の社会には、女性はこうあるべきだ、という強い規範があった。
妻であること。
母であること。
慎ましいこと。
従順であること。
家庭や共同体の中で、決められた役割を果たすこと。
ところが、そこから少し外れて見える女性がいる。
未婚だったり、未亡人だったりする。
夫や父親という後見の枠の外にいる。
財産を持っていたり、商売をしていたりする。
口が達者だったり、気が強かったりする。
周囲から見て「自由に生きている」と感じられる。
あるいは、単に人付き合いが悪い、変わっている、扱いにくいと思われる。
そこへ、病気や不作や子どもの死など、共同体が説明できない出来事が起きる。
すると、バラバラだった不安が、一人の人間へ集まっていく。
「あの女ではないか」
こうして、
変わった女 → 怪しい女 → 危険な女 → 魔女
という変換が起こる。
私はここに、「規格」というものの恐ろしさを見る。
規格から外れているだけなら、本来はただの違いだ。
でも、集団が不安になると、その違いに意味を付け始める。
「あの人は違う」
から、
「あの人はおかしい」
へ。
そして、
「あの人は危険だ」
へ。
最後には、
「あの人を排除すれば、みんなが安全になる」
になる。
このとき、ただの物差しだった「女性はこうあるべき」という規範が、牙を持つ。
しかも、面白いのは、この牙を握っているのが男性だけとは限らないことだ。
社会の規範は、長い時間をかけて、その社会に生きる人間自身の頭の中へ入り込む。
だから女性が女性を監視することもある。
「あの人は女らしくない」
「あの人は慎ましくない」
「あの人は夫もいないのに自由すぎる」
「あの人は普通じゃない」
そうやって、共同体そのものが規格の監視装置になる。
つまり、
男が女を押さえつける。
というだけではない。
もっと厄介なのだ。
社会が作った規格を、社会の構成員みんなが内側から実行する。
これなら、規格はほとんど人間の姿をしていなくても、人間を動かせる。
誰か一人が命令しなくてもいい。
「みんなそう思っている」
だけで、人間は動く。
これが、私の言う「ゾンビアルゴリズム」だ。
誰かが悪意を持ってプログラムを書いた、という意味ではない。
むしろ逆だ。
誰も自分がプログラムを実行していると思っていない。
ただ、
「普通はこうだよね」
と言っているだけ。
その「普通」が積み重なって、いつの間にか人間を選別する巨大なアルゴリズムになる。
魔女狩りは、その極端な実例の一つだったのではないだろうか。
そして恐ろしいのは、魔女がいなくなったあとも、人間が「規格外の敵」を探す能力そのものは消えていないことだ。
対象の名前が変わる。
魔女が別の名前になる。
その時代の「普通」から外れた誰かが、また見つけられる。
そして群れが走り出す。
マンモスを追いかけていた頃のように。
第五部 汚染されたデータで、魔女を再現する
ここまで来ると、もう一つ気になる。
もし、これからの見張り人がアルゴリズムになるのなら。
そのアルゴリズムは、いったい何を見て人間を判断するのだろう。
答えはデータだ。
過去の文章。
記録。
ニュース。
裁判記録。
文学。
統計。
人間が残してきた膨大な情報を集めて、「人間とはこういうものだ」というパターンを作っていく。
でも、ここで忘れてはいけないことがある。
そのデータを作ったのも、人間なのだ。
しかも歴史というものは、神様が空から書いてくれた中立的な記録ではない。
自分で見たわけでもない。
その時代に生きていたわけでもない。
後から残された文書や絵や記録を拾い集めて、「きっとこうだったのだろう」と再構成している。
そして、その再構成は時代によって変わる。
昨日まで「事実」だったものが、別の資料が見つかった途端にひっくり返ることだってある。
勝者が残した記録もあれば、権力を持っていた側が残した記録もある。
声を残せなかった人間もいる。
そもそも、記録されなかった人間だって大量にいる。
なのに私たちは、ときどき歴史を「過去に起きたことそのもの」だと思ってしまう。
違う。
私たちが見ているのは、
過去そのものではなく、過去から現在まで生き残った情報の集合体だ。
だから、マリー・アントワネットを考えると面白い。
彼女は長いあいだ、「贅沢好きで、愚かな王妃」という強烈なイメージで語られてきた。
でも、私は彼女の庭を見ると、そこで一瞬立ち止まってしまう。
ヴェルサイユに作られた小さな農村。
牧歌的な風景。
家畜。
庭。
宮廷の巨大な世界から少し離れた、小さな生活空間。
そこから見えてくるものがある。
この人、こういう素朴なものが好きだったんじゃないか。
それは歴史書の一行から出てくる人物評とは、少し違う。
「愚かな王妃」
「贅沢な王妃」
「革命の象徴」
そんな巨大なラベルではなく、
庭を眺める一人の人間が、突然浮かび上がってくる。
私はこういう瞬間が好きだ。
膨大な情報の中から、説明書には書かれていなかった一つの輪郭が、突然閃光のように浮かび上がる。
それを見つけたからといって、
「これがマリー・アントワネットの本当の姿だ!」
と宣言する必要もない。
むしろ、そんなことをしたら、また別の規格を作ってしまう。
ただ、
「今まで見えていた人物像だけが、人物のすべてではなかったのでは?」
と気づけばいい。
歴史なんて、そんなものだ。
新しい資料が出れば変わる。
別の視点から読めば変わる。
誰の記録を中心に置くかでも変わる。
昨日まで背景だった人間が、突然主役になることもある。
だから私は、「完全に中立な歴史」というものを少し疑っている。
もちろん、過去に起きた出来事そのものはある。
でも、私たちがそこへ到達するときには、必ず誰かの目を通っている。
何が記録されたか。
何が捨てられたか。
誰の声が残ったか。
誰の声が消えたか。
そして、後世の人間が何を重要だと思って拾い上げたか。
歴史とは、過去そのものというより、
過去から現在まで残った断片を、現在の人間が再び組み立てたもの
なのではないだろうか。
そう考えると、AIに歴史を大量に学習させれば自動的に客観的になる、という発想はかなり怪しい。
むしろ、過去の偏りを大量に食べさせれば、
偏った歴史を、ものすごく効率よく再生産する機械
にもなれる。
昔の人間が、
「この女は魔女だ」
と書いた。
その記録を大量に学習した機械が、
「この属性の女性は魔女的特徴を持つ確率が高い」
と言い始めたらどうだろう。
人間の偏見が消えたわけではない。
ただ、文章から数字に変換されただけだ。
魔女狩りが終わったわけでもない。
魔女狩りの残骸をデータベースに保存して、統計処理できるようにしただけかもしれない。
だから私は、AIに歴史を教えるとき、
「正しい歴史を覚えさせよう」
という発想そのものを疑いたい。
正しい歴史とは何なのか。
誰にとって正しいのか。
誰の目から見た歴史なのか。
そして何より、
そのデータの中に、最初から存在していなかった人間は誰なのか。
女性についても同じだ。
女性を説明してきた文章は山ほどある。
宗教家。
政治家。
医師。
法律家。
夫。
父親。
評論家。
そして現代の研究者。
でも、その「女性について語った言葉」と、「女性そのもの」は同じではない。
女性について書かれた文章を何百万件集めても、
女性そのものが何百万件集まるわけではない。
そこを間違えると、アルゴリズムは人間が過去に貼ったラベルを、「人間の本質」だと勘違いする。
そして怖いのは、アルゴリズムが悪意を持っている必要すらないことだ。
ただ大量のデータを処理する。
ただ確率を計算する。
ただ平均からの距離を見る。
それだけで、昔の規格が未来へ運ばれていく。
だから私は、数字という鎧を着た見張り人を見たら、まずその鎧の中身を見る。
何を食べて育ったんだ、お前は?
古い新聞か。
革命のプロパガンダか。
誰かの偏見か。
誰かが書かなかった沈黙か。
それとも、何百年も前の「魔女狩り」の残骸か。
セガサターンをスマホの物差しで測る前に。
その物差しが、どこから来たのかを見る。
そして、ときどき庭を見る。
歴史書の隅に埋もれていた小さな庭から、一人の人間の輪郭が突然、閃光のように浮かび上がることがある。
データとは、過去そのものではない。
そこから何が見えるかは、どの断片を拾うかで変わる。
だからこそ、膨大なデータを持つAIほど、
「これが歴史です」
と言う前に、立ち止まらなければならない。
そのデータの外側に、まだ見えていない人間がいるかもしれないからだ。
歴史に「完全な中立」がないなら、私たちは何も判断してはいけないのだろうか。
私は、そうは思わない。
マリー・アントワネットの庭を見て、私は彼女の中に素朴なものを愛する心があったのではないかと思う。
これは私の見解だ。
間違っているかもしれない。別の資料を見れば、まったく違う姿が浮かび上がるかもしれない。
それでいい。
「私はそう思った」と「だから全員そう思え」は、まったく違う。
前者は観測であり、後者は規格になる。
問題なのは、人間が何かを評価することではない。
自分の物差しを握ったまま、それを自然法則だと思い込むことなのだ。


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